1 安徳天皇の出自   
      
   安徳天皇は第81代の天皇、祖父は平清盛、祖母は平時子(通称二位尼(にいのあま))、父は高倉天皇(後白河天皇の第7皇子)、母は平徳子(後の建礼門院)である。1178年高倉天皇は上皇となり、安徳帝は宝算2年で践祚するが、実権は祖父平清盛にあった。  
     
   2 壇ノ浦の戦いまで  
     
   1180年に高倉天皇が崩御し、翌年に平清盛が熱病(マラリアとされる)で逝去すると、「平家に非ずんば人に非ず」(平時子の兄弟平時忠の言葉)と権勢を欲しいままにした平氏一門への反感は大きくなっていった。
  
1183年、信濃源氏の木曽義仲が挙兵し入洛すると、清盛の三男(長子と二男は早世)で棟梁となった平宗盛や四男知盛、平氏の悪行の最たるものと非難され南都焼討を行った五男重衡、清盛の嫡孫の平維盛(これもり)、笛の名手の平敦盛(あつもり)など一門は、平時子、平徳子と共に、安徳天皇と三種の神器を奉じて西奔した。
  
九州まで落ちのびた一門は、再び勢力を得て備中で木曽義仲を破った。京に逃げ帰った義仲は源頼朝が遣わした源義経らに打ち取られ、再び都を追われた平家一門は九州に逃げたのち1184年東上してかつて都したことのある摂津福原に戻り、一ノ谷に城壁を構え源氏軍に備えた。
同年3月義経に有名な「鵯越え坂の逆落とし」で奇襲を受け激闘4時間、多くの一門は討たれた。残った総大将平宗盛らは、安徳帝と共に、以前本拠を置いたことのある讃岐屋島へと落ち延びた。
  
義経は船を整え翌年3月暴風の中を僅かな手勢で四国に渡り、手薄になった屋島の平家本陣を急襲し、激しい矢合戦となったが勝利した。残った平家一門は瀬戸内海を転々としたのち、既に九州は源範頼の大軍で押えられていたため長門彦島で孤立した。
 
     
   3 壇ノ浦の戦い  
     
   1185年4月義経は840艘の水軍を編成して、500艘の平家軍に関門海峡壇ノ浦で最後の決戦に臨んだ。水軍に慣れた平家軍であったため、坂東武者の義経軍は追い詰められ苦戦を強いられたが、平家方からの寝返りなどがでて戦局がかわり勝敗は決した。
  
死を決意した女船にいた二位尼は、宝剣を腰にさし神璽を抱え、「浪の下にも、都のそうろうぞ」と安徳天皇と共に入水し、これを見た建礼門院や残った女官たちも先を争って投身した。
  
総帥平宗盛や武将たちも覚悟を決め、あるものは浮き上がらないよう鎧を二領重ねでまた碇を重しとして次々と身を投げた。水面は平家の赤旗で埋まり、三種の神器と共に多くの平家一族や付き従った源氏や藤原氏、また廷臣や僧侶などが海に没した。
  
しかし建礼門院は熊手に髪をかけられ助けられ、宗盛は泳いでいるところを捕えられ、八咫鏡と八尺瓊勾玉は海中から回収された。安徳帝のご遺体は翌日漁師の網にかかって引き上げられた。
 
     
  4 壇ノ浦の戦いの考証   
     
  以上の記述は、平家物語や吾妻鑑(東鑑)や明月記などをもとに、現在定説となっている戦いの経過である。
  
平家物語は、無常感漂う「祇園精舎の鐘の声……」で始まり、建礼門院の大原の里での消息で終わる平家一門の栄枯盛衰を描いている。成立は1300年頃とされ、書き物として読まれるばかりでなく、平家琵琶をかき鳴らす琵琶法師によって平曲といわれる語りとしても人口に膾炙した。
  
吾妻鑑は、源頼朝から宗尊親王までの鎌倉6代の治績を記した歴史書で、成立はやはり1300年頃とされる。記述は編年体で1180年から始まり、安徳帝や壇ノ浦の戦いも含まれている。
  
明月記は、公卿藤原定家の1180年からの56年間の日記で、自筆本が残されている。源平の戦いなども記されているが有名な「紅旗征戎 吾ガ事ニ非ズ」(天皇家(平家)の戦いなど自分の眼中にない)と達観している記述もある
 
     
  5 平家物語の考証   
     
   平家物語に実際の壇ノ浦の戦いなどが正確に書かれているかを考える
  
1)平家物語は、戦いから120年経って書かれた記録である。その間記憶や伝承が正しく伝わってきたかの問題がある
  
2)当時今の新聞記者やルポラータのような役職はなかった。僧侶や祐筆などその代わりを務めたがどの位の取材力があったか疑問で、まして当事者へのインタビューで真実を集ることはほとんどなかったと思われる
  
3)平家物語は敗者の記録であり、生き残った者も少なかった。その人たちの言動が戦いの大混乱の中でどのくらい正確に残されたかは疑問である
  
4)平家物語は琵琶法師が語って伝えられてきた演劇的な側面も持つ。そのため伝世するうちに演出効果を高めるため劇的で刺激的な創作が付け加えられた可能性は高い
 
     
  6 吾妻鑑の考証   
     
  1)吾妻鑑は壇ノ浦の戦いから120年後にできたもので、事実が正確に伝わっていたかの問題がある
  
2)吾妻鑑は公式の歴史書であり、幕府内の複数の者の手になるとされる。したがってその内容は権力者側の都合のよいように編集されていることは考えられる 
 
     
   7  明月記の考証  
     
  1)明月記は日記であり、記された事象はリアルタイムに起こったことであろう。しかし現場を見ての記述ばかりでなく、伝聞で書き込んだものもある。壇ノ浦の戦いの現場にいなかった藤原定家にとっては、その記述は全て正確とはいえない伝聞によるものであった
  
2)「紅旗征戎 吾ガ事ニ非ズ」と、時世に疎くまた争いに関心がなかった定家が源平戦いの情報を詳しく得ていたとは考えにくい 
 
     
   8 潜幸の考証  
     
   1)当時高貴な人には影武者もいたであろうし、まして天皇であれば尚更であろう。また幼少であれば身代わりを作るのは容易であったはずであるし、年恰好の似た貴族の子息も中にいたであろう。
  
2)落ちる人たちにしてみれば、皇族の誰かを連れた方が落ち延びやすかったと考えられる。平家に反感を持つ人がいたとしても、天皇家は崇敬していたはずである
  
3)落人を受け入れる側にしても、そこに天皇家が含まれていたら丁重に取り扱うはずで、それを落ちる側も知っていたはずである。
  
以上から、入水した安徳帝が助けられ落人の中に安徳幼帝が含まれていた可能性はないとは言えないであろう。