1 藤原経房の遺書  
     
  幕末の1817年(文化14年)、摂津能勢郡出野村の藤原経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時に、棟木に吊るした黒変した竹筒が発見された。この中には経房の手で1217年(建保5年)銘で、安徳帝の壇ノ浦から野間の郷での登霞(崩御)までを記した5千文字にのぼる巻物文書があった。
  
それによると、侍従左少辨藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり「吉記」を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない同姓同名の別人)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の貴人の筑紫詣からの帰路である」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て、1185年(寿永4年、源氏方年号で元暦2年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年5月17日払暁登霞され、当地の岩崎八幡社に祀られた。
  
当時読本作者滝沢馬琴や国学者伴信友などは偽作と断じたが、文人木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残している。経路であった鳥取県の岡益の石堂や三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる(以上とほぼ同文をWikipedia に投稿しています)。
 
   
  2 藤原経房の遺書の考証  
   
  1)遺書を記した藤原経房であるが、当時正二位権大納言の藤原経房がいた。彼は高官であったためその動静が記録にのこされているが、壇ノ浦の戦いには加わっていない。まして源頼朝の側近であったため安徳帝と落ち延びたということはありえない(彼は日記「吉記」を残しており現物は伝世しないが、他で引用された文から壇ノ浦の戦いの様子も書かれていたようである)
  
2)そこで侍従左少辨藤原経房はこの経房とは別人と考えざるを得ず、敵味方とはいいながら、高官の中に同姓同名の人がいたとは余り考えられない
  
3)幕末に発見された遺書は、当時の知識人も見、記録にも残され筆写もされているが、その当時から真贋の判定は分かれたようである。実物は明治33年頃に貸し出した先で紛失したとされるが、紛失は偽書であった可能性を高める
  
4)能勢は、平清盛の側室になるのを拒否して自害した夕月姫の伝説が残り、平家に無縁の地ではない。しかし能勢周辺は多田源氏の発祥地とされ、また都へも近いことから落ち延び先としては余り適しているとは言えないのではと思われる
  
5)遺書には、安徳帝は潜幸の翌年8才で登霞されたとある。もし能勢潜幸が多少の伝説を基にして幕末に創作したものであったとしたら、もう少し宝算を上げたのではないかと思われる(祖谷山伝説では16歳、硫黄島伝説では64歳、対馬伝説では74歳で崩御されたとされる)。折角苦行して落ち延びたのなら、永らえて地元との伝説を作ってもいいように思われる。このことは遺書が偽書でない可能性もあると考えられる
  
いずれにしても安徳帝能勢潜幸については、経房遺言以外に伝承や遺跡が比較的残っているが、しかし決定的なものはない。身代わりの児や平家一門が能勢の地まで落ち延びた可能性は否定できないが、安徳帝能勢潜幸は、阿波祖谷山や薩摩硫黄島などへの20を越える他の「貴種漂流譚」と同じく、解けることのない謎でありロマンである。
 
 

 
   上;安徳帝が祭られたとする岩崎(能勢)八幡社
 下;来見山山頂の安徳帝御陵(手前墓碑、後方石碑)